家型埴輪を見て、太い柱や立派な屋根、二階建てに見える構造に驚いたことはありませんか。こうした建物は古墳時代に登場したのでしょうか。それとも、弥生時代や縄文時代にも存在したのでしょうか。この記事では、家型埴輪の年代をはじめ、吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡の発掘成果をもとに、約2,000年前、3,000年前、さらに古い時代の大型建築について解説します。
結論
- 家型埴輪は主に古墳時代の資料で、古墳時代前期から見られ、5〜6世紀のものも多く確認されています。
- 約2,000年前には大型建築が存在していました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、祭殿と考えられる大型建物や物見櫓などの遺構が発見されています。
- 弥生時代にも太い柱を使った立派な建物があったことが、柱穴の大きさや配置などから分かっています。
- 約3,000年前よりも古い大型建築の証拠もあります。 三内丸山遺跡では、約5,900〜4,200年前の縄文時代の集落跡から、巨大な柱を使った建物の遺構が見つかっています。
- 建物の存在と階数の確定は別問題です。 柱穴から建物の規模や構造を推定できますが、二階建てだったかどうかは、個々の遺構や資料に基づいて判断する必要があります。

FAQ
Q1. 家型埴輪は何年前のものですか?
A. 家型埴輪は古墳時代の資料で、古墳時代前期から確認されています。特に5〜6世紀の資料も知られています。現在から数えると、およそ1,400〜1,700年前に当たります。具体的な年代は、出土した埴輪によって異なります。
Q2. 弥生時代に二階建ての立派な家はありましたか?
A. 弥生時代には大型の掘立柱建物や高床建物が存在しました。ただし、発掘された柱穴だけで階数を確定することは難しく、復元建物の高さや用途には推定が含まれます。
Q3. 約3,000年前に太い柱を使った建物はありましたか?
A. 日本では、それより古い縄文時代にも大型建築の遺構が確認されています。青森県の三内丸山遺跡では、直径約1メートルのクリの木の柱を使った大型建物の跡が見つかっています。ただし、この建物は約3,000年前ではなく、約5,900〜4,200年前の集落に関係するものです。
Q4. 木造建築が朽ち果てても、建物の存在が分かるのはなぜですか?
A. 地面に掘られた柱穴や、腐らずに残った木材、建物の配置、土器などの出土品が手がかりになるからです。柱穴の大きさや間隔を調べることで、建物の規模や構造を推定できます。
Q5. 古代日本に現在の神社のような建物はありましたか?
A. 古代には祭祀に関係したと考えられる建物が存在しました。ただし、現代の神社建築と同じ形だったとは限りません。建物の形や用途は、遺構や出土資料をもとに慎重に考える必要があります。
日本の古代建築はいつから存在したのか?家型埴輪・吉野ヶ里遺跡・三内丸山遺跡から年代を探る
1. 家型埴輪の年代は古墳時代!二階建てに見える建物の正体
家型埴輪は、粘土で家の形を表現して焼き上げた埴輪です。古墳の上などに並べられ、当時の建物の形や、古墳で行われた祭祀を考えるための重要な資料となっています。
家型埴輪には、切妻造や寄棟造、入母屋造など、さまざまな屋根の表現があります。壁や入口、窓、柱などが表現されたものもあり、古代の建築を知るうえで貴重な手がかりです。
年代については、古墳時代前期から家型埴輪が登場し、5〜6世紀の資料も確認されています。例えば、文化遺産オンラインで紹介されている奈良県桜井市外山出土の家型埴輪は5世紀、群馬県伊勢崎市今井出土の大型の家型埴輪は6世紀の資料です。
6世紀の家型埴輪には、高さ約115センチメートルのものもあります。人の背丈に近い大きさの埴輪が実際に存在したことが分かります。
ただし、ここで注意したいのが、埴輪の形と実際の建物の構造は必ずしも一致しないという点です。
二階建てに見える埴輪があっても、それだけで当時の建物がすべて二階建てだったとはいえません。実際の建物を表現した可能性はありますが、祭祀や権威を象徴する造形だった可能性も考える必要があります。
家型埴輪の年代を知ることは、古墳時代の建築を理解する第一歩です。しかし、日本の大型建築の歴史は、古墳時代から始まったわけではありません。
2. 約2,000年前の弥生時代に大型建築は存在したのか
弥生時代の大型建築を考えるうえで、代表的な遺跡が佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な環壕集落として知られています。発掘調査によって、住居跡や高床倉庫、物見櫓と考えられる建物、祭殿と推定される大型建物などが確認されています。
特に注目したいのが、北内郭で見つかった大型掘立柱建物跡です。
その規模は約12.3メートル×12.7メートルに及び、弥生時代の建物としては最大級です。地面に柱穴を掘り、柱を立てて屋根などを支える掘立柱建物という構造でした。
吉野ヶ里遺跡の建物の中には、祭祀に関係する施設だったと考えられるものもあります。北内郭は二重の環壕で囲まれ、出入り口も限られた特別な区域でした。そのため、単なる一般住宅ではなく、集落の重要な活動に関わる場所だった可能性があります。
年代は、弥生時代の終わりごろ、紀元後200年前後の集落の姿を復元したものが中心です。現在から数えると、およそ1,800年前に当たります。
つまり、家型埴輪が多く見られる古墳時代より前に、柱を使った大規模な建築が存在していたのです。
ここで大切なのは、建物の高さや階数をどこまで確実に判断できるかという問題です。柱穴の配置から大型建物だったことは分かっても、二階建てだったか、何メートルの高さがあったかまで、すべてが明らかになっているわけではありません。
それでも、弥生時代に大きな建物を建てる技術が存在したことは、発掘調査によって確かめられています。
3. 約3,000年前より古い時代にも巨大な柱の建物があった
日本の古代建築の歴史をさらにさかのぼると、縄文時代にも注目すべき遺構があります。
青森県の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけて営まれた大規模な集落です。年代は紀元前約3,900〜2,200年、現在から約5,900〜4,200年前とされています。
この遺跡では、多数の竪穴建物跡や掘立柱建物跡に加えて、巨大な柱を使った大型建物の跡が見つかっています。
大型掘立柱建物跡では、柱穴の直径と深さがそれぞれ約2メートルあり、6本の柱穴が4.2メートル間隔で規則的に配置されていました。柱穴の中には、直径約1メートルのクリの木の柱が残っていました。
こうした柱の大きさは、縄文時代の建築技術を考えるうえで重要です。
現在、三内丸山遺跡では発掘成果をもとに、高さ約14.7メートルの大型建物が復元されています。ただし、この高さは柱穴などの調査結果をもとにした復元であり、当時の建物の高さが完全に確定しているという意味ではありません。
また、建物の用途についても、神殿、物見やぐら、モニュメントなど、複数の説があります。
さらに、三内丸山遺跡には長さ約32メートルに及ぶ大型竪穴建物跡もあります。集会場や共同作業場などに使われた可能性が考えられています。
ここから分かるのは、日本では古墳時代や弥生時代よりもはるか以前から、大型の建物を造る技術が存在していたということです。
ただし、縄文時代の大型建築と、古墳時代の家型埴輪が表現する建物は、時代も構造も異なります。縄文時代に家型埴輪のような二階建ての建物が一般的に存在していたとまでは、確認されていません。
年代を正確に理解するためには、建物の規模、柱の構造、階数、用途をそれぞれ分けて考えることが大切です。
まとめ
家型埴輪は古墳時代の資料ですが、日本の立派な建物の歴史は、それよりはるか以前にさかのぼります。
約2,000年前の吉野ヶ里遺跡では、約12メートル四方の大型建物跡が確認されています。さらに、約5,900〜4,200年前の三内丸山遺跡では、直径約1メートルの柱を使った大型建物の跡が見つかっています。
つまり、日本では縄文時代から大型建築が造られ、弥生時代には集落の中心となる大規模な建物が存在し、古墳時代には家型埴輪によって建物の姿が立体的に表現されていたのです。
ただし、柱穴から建物の大きさが分かっても、二階建てだったかどうかや、実際の高さまで確実に分かるとは限りません。
家型埴輪を見たときは、その埴輪が何世紀ごろのものなのか、そして同じ時代にどのような建物跡が見つかっているのかを調べると、日本の古代建築の歴史がより具体的に見えてきます。

